渡来人説による応神皇統の解明
後漢書によれば、漢武帝の頃(BC141~87年)の頃、倭国(倭人の住んでいる地域)は百あまりの国に分かれた。その後、倭の極南界にあった委奴國王が倭の有力な王として倭王の金印を後漢から授かったが、倭国全体が統一されていたわけではなかった。
その後、2世紀後半、後期小氷期を迎え、世界的な寒冷化が起こり、中国では黄巾の乱、倭国では倭国大乱が生じた。水稲栽培が普及してきた当時、稲作農業は大打撃を受け、倭人は新羅にまで逃げる事態となった。倭国大乱時に邪馬臺國が誕生したが、大国・狗奴国と互角に戦っており、まだ倭国全体が統一されていなかった。
倭国が統一されたのは、空白の4世紀(AD313~344年;中国史書にも半島の三国史記にも一切、倭国の記載がない)であろう。馬が伝来し平群(へぐり)氏が飼育した。弥生時代畿内に鉄の鍛冶場はなかったが、河内・大県(おおがた)で鉄器が生産されるようになった。吉備、讃岐、淡路島の製塩技術も河内に伝わり製塩土器が残っている。須恵器(すえき;高温に焼き上げた硬質の土器)が生産され、河内湖西北部には巨大な倉庫群が立ち並んでいた。河内は、経済・物流の大拠点となり百舌鳥。河内王朝の誕生である。百舌鳥・古市古墳群が多く建造され、歴代応神皇統の墳墓が奈良に比定されているものは皆無である。
隋書俀国伝に「俀国は-----その国境は東西五月行、南北三月行にして、それぞれ海に至る。邪靡堆(ヤマト)に都する。即ち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり。」と記載されている。即ち、邪馬臺國が倭国の祖なのである。
河内王朝を統治していたのが倭の六王(いわゆる倭の五王+七支刀を受領した旨王)である。倭の五王を応神皇統に比定する研究が古来行われていたが、どの説も年代が中国史書に合致するものはない。諸説のうち、埼玉の稲荷山鉄剣の銘に記載されているワカタケルの名(雄略の幼名)から21雄略=武王に比定することでほぼコンセンサスを得ている。しかし、
―倭の武王は502年、「征東大将軍」に進号されている。
―書紀では、の武王崩御後、22清寧、23顕宗、24仁賢、25武烈が在位し、507年、26継体が即位したことになっている。
武王は進号後、しばらくは存命であったろうから、短期間にこれだけ多くの天皇が在位していたとはとても考えられない。津田左右吉氏は22清寧、23顕宗、24仁賢の三代を架空と断定した。
そもそも、日本書紀はどのようにして応神皇統を記述したのであろうか?
渡来人説による応神皇統の解明:(その1)応神皇統とは何なのか?
今まで22回に渡り、日ユ同祖論を投稿してきました。これからが本論です。日本の起源は天孫降臨にあるとされていますが、宇宙人ではないので、本当に空から降りてきたと信じている人は少ないでしょう。弥生時代に多くの民族が渡来してきたのは否定できません。空からではなく、外国からの渡来人が作った神話と考えるのが自然です。これを仮に渡来人説と名付けることとしますこととします。実際、16,000年以上の縄文人の歴史は一切記紀には記載されていません。
神様の名前は、とても長く、降臨以前の歴史があったことを示す名前のようです。なお、日ユ同祖論とは、日本人の祖先はユダヤ人(E系統)であったということではなく、Y染色体のDE系統が分かれ、日本にD系統の民族が渡来したという意味です。勿論、O系統など、他の多くの民族が日本に渡来しています。
そこで、特に、中国史書と整合が全くとれない応神皇統(倭の五王説は諸説ありますが、いずれも年代、在位期間など中国史書と合致する説は存在しません。)について、日ユ同祖論の観点から光を当てると今まで解明できなかった矛盾が解決できることがありますので、連載します。万系一世の皇統とは?天皇家のシンボルの意味とは?などを述べていきたいと思います
日本書紀の応神皇統の記述を読むと実に不思議である。
1. 一族の夥しい殺し合い
添付図は、応神一族が殺害した人物の系統図である。一族の殺し合いは半端ではない。一族同士で殺し合い、最終的に子供がなかった25武烈天皇で途絶え、15応神天皇まで遡り、5世孫の26継体天皇に継がざるを得ないというストーリが展開されている。
2. 手白香皇女が生まれたことになっている。
22清寧、23顕宗、24仁賢の3代は津田左右吉氏から架空と断定された天皇であるが、仁賢天皇の意味は、継体の皇后となる手白香皇女(たしらかのひめみこ;欽明天皇の母)が生まれたことになっている。継体が57歳の時である。橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ;宣化天皇皇后、石姫皇女母)が生まれたという記述も継体皇統正当化の重要な役割を果たしている。
3. 緊迫した半島情勢が記述されていない
4世紀は中国の北や西の地域にいた五胡と呼ばれる遊牧騎馬民族が中国本土へ侵入してきた時期である。朝鮮半島の北から中国の東北部を支配していた高句麗も慕溶鮮卑(ぼようせんぴ)が建てた前燕(337年~370年)に攻撃されて大きな打撃を受け、北の領土を失った。そのため高句麗は本格的に南下策を取るようになった。4世紀半ば過ぎ、高句麗が南下し、朝鮮半島情勢はにわかに緊迫化する。朝鮮半島の南にいた新羅や百済は騎馬軍団を持つ高句麗により国家存亡の危機に立たされた。加耶諸国(朝鮮半島南部:倭人が多く居住していた。)も同様であった。新羅は高句麗に接近し、百済と加耶諸国は日本列島の倭国と結んで高句麗に対抗しようとした。加耶・百済・倭国連合は同盟関係を結び、北から南下してくる高句麗に必死に対抗していたのである。一族で殺し合いをしている状況ではなかったのである。
このような情勢であったから、倭の五王は宋に願い出て将軍号を与えてもらったのである。この様子は、日本書紀には全く記載されていない。従って、日本書紀記述が正しいのであれば、倭国を代表して上記のような軍事、外交を行う政権を担う立場にはいなかったと言える。おそらく記紀編纂者は、正しい歴史を認識できていなかったと思われる。
4. 矛盾する人物像
最も多く殺戮したのは雄略である。しかも、その手口は焼き殺すなど残忍、非道な人物として、書紀には描かれている。しかし、稲荷山古墳の銘文には、
「シキの宮に在る時、吾天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」
とある。
また江田船山古墳の鉄剣の銘文には、
「此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。」
とある。
銘文のワカタケルを雄略天皇に比定するならば、殺戮を繰り返した極悪非道の人物ではなく、部下から慕われていた人物であったことは明らかである。
また、25武烈については、
武烈天皇
日本書紀では、古事記と全く異なり、極悪非道な人物として武烈を描いている。
・二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す(妊婦の腹を裂いてその胎児を見た)。
・三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう(人の爪を抜いて、芋を掘らせた)。
・四年の夏四月に、人の髪を抜いて木登りをさせ、木の根元を切り倒し、登らせた者を落として殺して面白がった。
・人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ。
・六年の冬十月に、百済国は麻那君(まなきし)を遣わして貢物をした。天皇は百済が長い間貢物をしてなかったと責め、抑留した。
・七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ(人を木に登らせて、弓で射落として笑った。
・女を裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出して、面前で交尾を見させた。女たちの性器を調べ、潤っている者(すなわち愛液が分泌されている者)は殺し、潤っていない者は、奴隷として召し上げた。これが楽しみであった。
これらは創り話であろうが、こういう発想は16,000年以上も争いをせず、平和に暮らしていた縄文人の発想ではない。大陸の人間が創ったストーリであろう。実際、記紀の編纂を命じた天武は漢人の血を引く漢貴王の子であった。
古事記には上記のような記述は一切ない。
・小長谷若雀命(武烈天皇)は、長谷之列木宮で、8年間天下を治めた。天皇には子供が居なかったので、御子代として小長谷部を定めた。御陵は片岡之石坏岡にある。
天皇が崩御したが、次の王が見つからなかった。それで、品太天皇(応神天皇)の5世の孫、袁本杼命(継体天皇)を近淡海国(近江)から呼び、手白髮命(手白香皇女)を娶らせ、天下を授けた。)
このようなことを考慮すると、応神皇統は
「一族が殺し合いをして、世継ぎが誰もいなくなり、応神の五世孫の継体が即位せざるを得なかったストーリ」
を記述する狙いがあったことが明白である。